生息する物

10年ほど前に総持寺祖院に行ったことがある。季節は夏だったと思う。
門前に立ったとき、門を通り寺院の敷地に足を踏み入れたとき、諸嶽山やそこに生息するすべての物がもつほとんど威圧といって良いほどの存在感に圧倒された。
しかしそのときに感じたのは拒否では無かった。思わず背筋をのばしたくなるような厳しさはあったが、それと同時に大きな掌の上に乗っているような安心を与えてくれた。その印象は寺院の中に入っても変わらず、寺院内のどの場所に於いても大本山の意志が隅々まで行き届いているのを体感出来た。
寺院内の到るところから見ることの出来る外の景色も、おそらく其処に生息する物が本来持っているであろう力強さを具現していて見事であった。


それから一年かもっと後だろうか、それほど離れていない別の県にある非常に有名な寺院に行った。そこには観光客がたくさん居り、彼らの対応に追われて決して少なくない数の僧が慌ただしく働いていた。
しかしそこでは、総持寺祖院で感じられた威厳や生命力を自分は見つけることが出来なかった。逆に寺院の中や周辺に生息する物たちの元気の無さが目立っていた。苦しんでいる、というより疲れている、そういう印象をここでは与えられた。
同じ高名な寺院でありながらこれほどの落差があることに当時はずいぶん戸惑いを持ったものだ。


もう一つ、これはいつのことだったか記憶は定かではないが、多摩御陵に一人でふらっと出掛けた時の事だ。
そのときには門の中に入って数歩進んだかどうかなのに、とても大きな拒否を感じた。生息する物たちはまるで脅かすかのように入ってくるなと言い続けた。結局私はそれを振りきり前に進み、亡き皇族たちの墳墓を見てきたのだが、帰るときに恨み言を投げかけられる事となった。


それぞれの場所でのそれぞれの生息する物の意志が何を意味するのかははっきりとは判らない。
だけれども彼らは聴こうとする者には主張をしてくる。話しかけてくる。やはり存在しているし、生きてもいる。人間と同じ世界にいるとは限らないが接点はどこかしらに必ず持っている。
それらに気づき目を向け、共にある間は自分は元気でいられるだろう。


この事を書きたくなったのも生息する物の意志なのかもしれない。感謝。